京都嵐山は、東山の清水寺界隈に続いて人気が高く、全国から渡月橋を観たいと訪れる人が後をたちませんが、「嵐山」は平安京の歴史を紐解いてみると、平安京の時代に課せられた裏の顔があったのです。

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京都観光のシンボルといえる渡月橋とともに観光地として有名な嵐山ですが、京都に古くから住んでいる都人(みやこびと)を自覚する人の中には、「嵐山に近づきたがらない人もいる」とのうわさがあります。

奈良から京都に都が移った理由

奈良の「平城京」から、京都の「平安京」へ遷都されたのにはどんな理由があったのか?
その理由は、呪われた歴史にあったそうなのです。

まず、京都を都とする「平安京」への遷都は、奈良の都・平城京から直接移転した都ではないのです。
京都・平安京となる前の10年間は「長岡京」という都が、今の長岡天神のあたりにあった時期があったことをご存じですか?

長岡京では、桓武天皇に造営を命じられた藤原種継が、平城京から移転をする反対勢力の大伴継人(おおともの つぐひと)の仕業によって、造営を開始した翌年の785年に暗殺されてしまったのです。

そのことから、桓武天皇は藤原種継の暗殺に関与したとして、大伴継人や暗殺に加担した数十名を処刑しただけでなく、長岡京造営の目的の1つには、東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力を排除したいという理由から、東大寺とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継の暗殺を企てたという疑いをかけられ、早良親王も捕らえられたのです。

捕らえられた「早良親王」は、ひとことの弁明もできないまま、乙訓寺に幽閉されたのですが、「早良親王」は、一切の飲食を拒んで、無実を訴え続けましたが、聞き入れてもらえず、淡路島へ配流されることになったのですが、途中で餓死してしまったのです。
早良親王の屍は、そのまま淡路に送られて、葬られました。

この事件以降、この処分を命じた桓武天皇の周辺の人が次々に死んでしまうことが続きました。
そのことが、“早良親王の怨念”といわれる事になったのです。

早良親王の怨念

 
「長岡京」が移転を余儀なくされた怨念は、こうしてはじまりました。
皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、と身内の不幸が続きました。

天皇の身内以外にも、藤原種継の後を引き継いで、都の造営を行っていた者たちが雷に打たれて死んでしまうという事があったり、伊勢神宮が何者かに放火されるということまで起こりました。

そして、極め付けは、長岡京に大洪水が押し寄せ、疫病が流行したのですが、今の時代なら大洪水が起こった後の衛生面の悪化からと考えますが、当時は怨霊ということで恐れられたのです。

これらの事件を陰陽師は「早良親王の怨霊の祟り」とし、桓武天皇は暗殺の罪を許して墓守を置くなど、幾度か鎮魂の儀式が執り行われました。

それでも怨霊をおさまらず、桓武天皇は現在の京都に平安京として改めて遷都することになったのです。

平城京からすぐに平安京に遷都したのではなく、783年桓武天皇が奈良の僧侶たちの意見が多くなり、うるさい僧侶から逃れるため、長岡京に遷都。平安京には遷都(794年)しました。

平安京に張られた結界とは?

この平安京遷都をすることになって、陰陽師に、「玄武(北)に 山があり、青龍(東)に河川があり、朱雀(南)に湖沼があり、白虎(西)に大道がある」場所が都を造るのに最適といわれたのです。
 

この条件をまとめてみると、
玄武(北の方角)には、船岡山
青龍(東の方角)には、鴨川
朱雀(南の方角)には、巨椋池(おぐらいけ)
(巨椋池(おぐらいけ)は、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて干拓事業によって農地になっています。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルの、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖だった。)
(ウィキペディアより)

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白虎(西の方角)には山陽道がある。
平安京は、この立地条件に当てはまったのです。

おまけに、この4つの条件はご丁寧にも「結界」(悪霊・怨霊から守る霊的にはバリヤ)の役目にもなっていたのです。

でも、桓武天皇はそれだけでは新しい都を守る結界として安心できなかったようで、二重三重に結界を作ったのです。

1つは、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」をお祀りして、「大将軍」と名付けて平安京の周囲に神社を造営しました。

これはボックスのタイトルです。

「大将軍」と名付けられた場所は、
北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町)
東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町)
南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町)
西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル)

2つ目は、平安京の「鬼門」の方角(古来より鬼が出入りすると恐れられた方角で北東のこと)に、

これはボックスのタイトルです。

「狸谷不動尊」(京都市左京区一乗谷狸谷)、
「上賀茂神社(賀茂別雷神社)」(京都市北区上賀茂本山)
「下賀茂神社(賀茂御祖神社)」(京都市左京区下鴨泉川町)
「上御霊神社」(京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊堅町)
「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市坂本本町)

神社も仏閣も関係なく置いて、都の霊的守護を強固にすることに努めたのです。

結界の外の嵐山の妖怪伝説

さて、この結界の位置を確かめると、保津川が流れる嵐山は結界の外にあるためか、嵐山には、源氏物語をはじめ伝説が残っています。

平安時代の「鬼」とは、黄泉の国に行った人の変わった姿であると信じられていたのですが、
これらの鬼は、“神や仏法の保護を受けることができない土地”でしか生きられないと信じられていて、「鬼の国」につながる保津川流域は、そのまま「黄泉の国」に通じる道があると信じられていたのです。

そのことから、風葬の土地とされたり、墓を作って死体を埋める土地として理にかなっていると考えられ、同時に、たくさんの幽霊や多くの怪奇現象が起きているという記録もあります。

化野念仏寺がある、化野は東山の鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる場所です。

弘仁2年(811年)、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされ、後に法然が念仏道場を開き、念仏寺となったといわれます。
(ウィキペディアより)

嵐山地域は、平安時代には鬼の出入り口として、墓場と想定されていたのではないかと考えられます。
実際に、嵯峨野といわれるこの土地には、嵯峨天皇の陵墓など、旧貴族の墓や旧天皇の墓などが多数存在していますし、化野念仏寺もあります。

嵐山に伝わる怪奇伝説

鬼の頭領として有名な「酒呑童子」、平安時代から鎌倉時代に掛けて都を荒らした無法者とされた“鬼”は、丹波国の大江山、または現在の京都市西京区大枝(おおえ)や老ノ坂(おいのさか)(京都市洛西地区)及び隣接する亀岡市篠町王子(大江山という小字がある)など、
保津川の上流の村や町を鬼の棲家としていた、ということになっています。

これは、平安京の結界が強くて、鬼が都の中に入れなくて、結界の外側に鬼が溜まっているということを表していて、さらに、平安京を流れる2つの川のうち、鴨川は 雲ケ畑の志明院に水源があり、緩やかに町中を流れていますが、保津川は山の中から急な勢いで流れることから都の人々から恐れられていたということにも関係があるのでしょうか?

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